この作品について
芹沢ひよりは、いつもより少しだけ早歩きで歯科クリニックの廊下を抜け、診察台の前に腰を下ろした。
十一月の朝にしてはやけに温かく、彼女は薄手のニットの袖を指先で整えながら、小さく息を吸った。
診察室の光は、冬の海辺で跳ね返る陽光のように透明で、彼女の表情をどこか優しく照らしていた。
ひよりはチェアに身を預けると、スタッフに渡された透明なマウスオープナーを、まるで馴染みの古い玩具のよ
うに、ためらいなく口にかけた。
瞬間、世界が少しだけおかしな角度で回転し、
ひよりの笑顔は、広がり、引き延ばされ、
どこか滑稽で、それでいて妙に朗らかなものへと変わった。
けれど、本人はそんなことを気にしていないようだった。
むしろ、少し楽しんでいるようにも見えた。
彼女は大学時代からずっと、“自分は自分のままでいい”という考えを、丈夫な革の財布のようにポケットに入れ
て持ち歩いてきたのだ。
ひよりはオープナー越しに歯を見せながら、指先で自分の歯列を軽くつつく。
まるで、遠い海沿いの街で拾った白い貝殻の並びを確かめているような、そんな静かな仕草だった。
「ここ、少し気になるんですよね」
言葉は装置に遮られてうまく発音にならなかったが、
その声音の柔らかさだけは、部屋の透明な光にきちんと届いていた。
医師が頷き、器具が小さな音を立てて動き出す。
ひよりは目を細め、少しだけ肩の力を抜く。
その瞬間、ぼくは彼女の横顔が気に入った。
世界がどんなに速く騒がしく回り続けても、
こういう人は、決して巻き込まれすぎない。
ひよりの中には、小さな湖のような静けさがあり、
その静けさが、今日の診察室をすこし特別な場所にしていた。
・本編にモザイクはありません。
・当作品は全て高性能AIによるCG動画です。
・実在する人物・場所とは一切関係ありません。
■収録時間
10秒(音声あり)
mp4